天導ルリカは生まれるのを止めた
第五編 澪編
第五編 澪編
第一章 毎晩の夢
学院に来た年の四月。
*
帝都に来た最初の晩、湖の夢を見ました。
夕方で、板の隙間から、細い光が落ちていました。私は自分の小さな舟で、桟橋の下へ入っていきます。頭の上の梁を両手でつかんで、手で引っぱって進むのです。
舟には、女の子がもう一人乗っていました。
十歳くらいの子でした。黒い髪を肩で切りそろえていて、目の形が少しきついのに、声はやわらかい。知っている顔でした。
「るりちゃん。ここから深いの。大人でも足つかない」
夢の中の私は、その子をそう呼んでいました。私も同じくらいの年で、膝に擦り傷が二つありました。
付け根から十三本目の杭のところで、私は舟を止めました。梁の下側に、白い切り口がありました。
「るりちゃん。これ」
手を伸ばしかけると、るりちゃんが言いました。
「触らないで」
私は、手を止めました。
「澪ちゃん。お父さん、呼んできて。一人で。誰にも言わないで」
私は舟を付け根まで引き戻して、岸へ上がって走りました。走りながら、おとうちゃんがまだ番人小屋にいることが、嬉しくてたまりませんでした。
*
目が覚めると、寄宿舎の天井でした。
二階の奥の、二人部屋です。窓の外はまだ暗くて、同室の多恵さんの寝息が聞こえました。
私は小野澪といいます。十七歳です。湖の別荘、星見荘の番人をしていた小野弥吉の娘です。
六年前の八月、お盆の灯籠流しの晩に、天導本家の旦那様が桟橋から湖へ落ちて亡くなりました。桟橋の先が折れたのです。番人の見回りが足りなかった、ということになりました。父はその年の秋に暇を出され、村で日雇いの仕事をしていましたが、胸を悪くして、私が十四の冬に亡くなりました。
亡くなる前の十日ほどのあいだに、父は手紙を一通書いていました。封筒の表に、澪へ、とだけありました。中はほとんど、私への言いつけです。ご飯をちゃんと食べること、伯母さんの言うことを聞くこと。その終わりのほうに、三行だけ、ほかと違う字の大きさで書いてありました。
八月十二日の朝、桟橋の柱に傷はなかった。
わしは毎朝見ていた。
見ていなかったのではない。
父の字は大きくて、便箋の罫からはみ出していました。
母は私が小さいころに亡くなっているので、父のあとは、村の伯母の家に置いてもらいました。村の小学校で、先生のお手伝いをしていました。その先生が、帝都の学院の奨学生に推薦を書いてくださったのです。
受かったと知らせが来た日、伯母は喜んでくれて、それから、少し困った顔で言いました。
「天導のお嬢さんも、あの学院に通っておいでだよ」
「知っています」
「あのお嬢さんは、あんたを恨んでなさるそうだよ。旦那様が亡くなったのは番人のせいだって、奥様がそう教えなすったって」
伯母は私の髪を撫でました。
「近寄るんじゃないよ」
私は、はい、と言いました。
言いながら、父のたばこの缶のことを考えていました。缶の中に、貝殻が一つ入っています。内側が虹色の、小さな二枚貝の片方です。
事件の前の年の夏、星見荘に、分家のお嬢様が来ていました。九つの、黒い髪の女の子でした。私はその子と一日だけ、岸で貝殻を拾いました。虹色のが一つだけ見つかって、二人で片方ずつ分けました。その子は木に登れなくて、私が下から、足をかける枝を教えました。
その子が、天導瑠璃さんです。
私はあの缶を、帝都まで持ってきていました。恨まれているかもしれない人との思い出なのに、村に置いてくることができませんでした。
*
「澪さん、早いのね」
多恵さんが布団から顔を出しました。私と同じ学年の、よくしゃべる人です。帝都の呉服屋の娘さんで、昨日、荷物を解くのを手伝ってくれました。
「湖の近くで育ったので、朝は早いんです」
「日に焼けてるものね。夏の子みたい」
多恵さんは褒めるつもりで言ったようでした。洗面所の鏡には、たしかに、ほかの子より色の黒い顔が映っていました。短い髪を、学院の決まりのとおり後ろで一つに結びます。結ぶと、耳の下の毛が少し余ります。奨学生の制服は、ほかの子たちのものと形は同じで、布が少し薄いのです。
食堂へ降りる階段で、多恵さんが声を落としました。
「ねえ。澪さんって、星見荘の番人さんの」
「はい」
「天導さまに、気をつけてね」
多恵さんは、本当に心配してくれている顔でした。
「一つ下の学年の、天導瑠璃さま。本家の跡取りのお嬢様よ。婚約者もいらっしゃるの。私たちとは、もう身分が違うの」
「その方が、どうして」
「番人さんの娘が来るって、先週から噂になってたの。天導さまがどんなお顔をなさるかって」
どんなお顔、と私は思いました。私は、九つの子の顔しか覚えていません。
*
その日の昼休みに、私は瑠璃さんに会いました。
中庭の、楠の下でした。奨学生の三人でお弁当を食べていたところへ、下級生の女の子が一人、小走りに来ました。
「あの、小野澪さんは」
「私です」
「天導さまが、お話ししたいそうです」
女の子の後ろに、瑠璃さんが立っていました。
背が高くなっていました。黒い髪は長く伸びて、耳の上の髪だけを後ろでまとめ、紺のリボンで留めていました。目の形が、少しきつい。頬は、九つのころより細くなっていました。
周りのベンチが、しんとしました。
瑠璃さんは私の前まで来て、何か言おうとして、一度口を閉じました。それから、両手を胸の前でぎゅっと握りました。
「……ほんとに澪だ」
小さな声でした。私にしか聞こえなかったと思います。
「え」
瑠璃さんははっとした顔をして、背筋を伸ばしました。
「失礼いたしました。天導瑠璃です。小野澪さん、ようこそ学院へ。困ったことがあったら、何でも言ってね。……言ってくださいね」
語尾を、二回言いました。
私は立ち上がって、お辞儀をしました。
「小野澪です。よろしくお願いいたします」
「うん。……はい」
瑠璃さんは私の顔を見て、少し笑いました。
夢の中の、るりちゃんと同じ笑い方でした。
瑠璃さんが下級生の子を連れて戻っていくと、ベンチのあちこちで声がしました。
「天導さまが、番人の娘に」
「ようこそ、ですって」
「何かお考えがおありなのよ」
奨学生の一人が、私の袖を引きました。
「小野さん。いまの、何」
「……ようこそ、だそうです」
私には、それしか言えませんでした。
*
次の日も、その次の日も、瑠璃さんは優しくしてくれました。
朝、寄宿舎から校舎へ向かう並木道で会うと、「おはよう、澪さん」と言います。周りに人がいると、「おはようございます」に言い直します。
三日目には、昼休みにキャラメルを一箱持ってきました。
「これ、よかったら。奨学生の皆さんで」
瑠璃さんは箱を左手で差し出しました。受け取るとき、指先が少し触れました。
「どうして、私たちに」
「え。甘いもの、嫌い?」
「嫌いではありません」
「よかった」
聞きたかったことは、それではありませんでした。
一緒に来ていた下級生の子は、小暮さんといいます。瑠璃さんの一つ下で、いつも瑠璃さんのあとをついて歩いています。
小暮さんはキャラメルの箱を開けながら、私にこっそり言いました。
「天導さまは、お優しい方です。私が初等科のころから、ずっと」
多恵さんの話と小暮さんの話は、ちょうど反対でした。
五日目の夕方、学院の門の外に、背の高い男の人が立っていました。背広を着て、脇に本を一冊はさんでいます。眉がまっすぐで、口を結んでいました。
「一臣さまよ」と多恵さんが言いました。「天導さまの婚約者。分家の跡取りの」
瑠璃さんは門を出て、その人に頭を下げました。一臣さまは頷いて、それから、私のほうを一度だけ見ました。会釈をされたので、私も返しました。
瑠璃さんは振り返って、私に小さく手を振りました。一臣さまの隣で、私に。
*
夢は、毎晩見ました。
いつも瑠璃さんの夢です。年も場所も、少しずつ違います。それでも、どの夢の瑠璃さんも、私に優しくしてくれました。
四月の終わりの晩には、うんと小さな瑠璃さんの夢を見ました。
星見荘の台所の裏で、私は五つくらいで、椅子に座って豆をつまんでいました。父に「澪、ご挨拶を」と言われて、椅子から降りました。
「小野澪です。五つです」
目の前に、もっと小さな女の子がいました。四つくらいで、黒い髪に銀色の星の飾りを留めていました。
「るりか」
その子はそう名乗りました。
「るりかちゃん。豆、たべる?」
「たべる」
二人で生の豆を三つずつ食べて、父に叱られました。叱る父の声が、笑っていました。
目が覚めてから、しばらく布団の中で考えました。
るりか、という名前の人を、私は知りません。天導のお嬢様の名前は、瑠璃です。夢がどこかで間違えたのだと思いました。
間違えているのに、あの子が瑠璃さんだということだけは、夢の中の私にも、起きた私にも、はっきりしていました。
多恵さんは、まだ寝ていました。私は起きて、たばこの缶を開けて、虹色の殻を一度だけ見ました。
それから、学院へ行きました。今日も並木道で、瑠璃さんは「おはよう」と言って、「おはようございます」と言い直しました。