天導ルリカは生まれるのを止めた
第二章 虹色の貝殻
第二章 虹色の貝殻
七月。
*
五月と六月のあいだ、私は瑠璃さんを見ていました。
何かお考えがおありなのよ、と、最初の日に誰かが言っていました。私も、少しはそう思っていました。本家のお嬢様が番人の娘に優しくするのには、何か理由があるはずです。理由が分からないものは、自分の目で確かめたくなります。小さいころから、そういう子だと言われてきました。
それで、見ていました。
瑠璃さんは、小暮さんに優しくしていました。用務員のおじさんにも、食堂のおばさんにも、奨学生のほかの二人にも、優しくしていました。上級生に廊下の真ん中を譲られると、困った顔で端へ寄っていました。
一臣さまが門で待っている日は、門のところで一度、髪のリボンを直していました。
私にだけ優しいのでは、ありませんでした。
ただ、私の前でだけ、少し変でした。
私と目が合うと、瑠璃さんは一度、口をぎゅっと結びます。それから、笑います。講読会の席で私の隣になると、本を逆さに開きます。並木道で私に「おはよう」と言ったあと、何もないところでつまずいたことが、二回ありました。
六月の終わりに、私は多恵さんに訊いてみました。
「天導さまは、よくつまずかれるんですか」
「え? 天導さまが? 見たことないわ」
多恵さんは、首をかしげていました。
*
七月の初めの晩、夢に出てきた瑠璃さんは、いまの瑠璃さんと同じくらいの年でした。
学院の銀杏の下で、瑠璃さんは私に風呂敷包みを差し出しました。怒っているような顔をしていました。
「これを、さしあげます」
包みは重くて、角が硬く、帳面が入っているようでした。
「何ですか」
「母の家計簿です。六年前の」
私は包みと瑠璃さんの顔を、代わるがわる見ました。夢の中の私も、天導のお嬢様は番人の娘を憎んでいる、と聞かされていたようでした。
「これはさしあげますから、一臣さまに色目を使ったり、一臣さまのことを悪く言ったりしないって約束してください」
それから瑠璃さんは、つんと顎を上げました。
「私のことは、どう言っていただいても結構です。断罪される覚悟はできていますので」
耳が赤くなっていました。
だんざい、という言葉を、私は目が覚めてからも覚えていました。
*
次の日の昼休み、中庭の楠に、小暮さんの帽子が引っかかりました。
風の強い日でした。麦わらの帽子が、二階の窓の高さの枝で、裏返しになって揺れていました。小暮さんは泣きそうな顔で見上げていて、瑠璃さんは用務員さんを呼びに行こうとしていました。
「取ってきます」
私は靴を脱いで、幹に手をかけました。
「え、澪さん、待って」
木登りは、湖の村でいちばん得意なことでした。下の枝に足をかけて、次の枝に手を伸ばします。楠の皮はざらざらしていて、足の裏がよく掛かりました。
下から、瑠璃さんの声がしました。
「落ちないでね! 落ちるなら、落ちるって言ってから落ちて! 受けるから!」
受けられるわけがありません。瑠璃さんの腕は、私よりずっと細いのです。
帽子を取って、枝に腰かけて、下を見ました。瑠璃さんが両腕を広げて立っていました。本当に受けるつもりの格好でした。周りに人が集まってきて、何人かが「天導さまが」と言っていました。
降りると、小暮さんが帽子を受け取って、何度もお辞儀をしました。瑠璃さんは、広げていた腕をどうしていいか分からない様子で、ゆっくり下ろしました。
「……すごいね。昔と同じだ」
「昔?」
瑠璃さんは返事をしないで、私の足を見ました。
「血、出てる」
ベンチに座らされて、瑠璃さんのハンカチで足の裏を拭かれました。白いハンカチに、楠の皮の粉と、少しの血がつきました。
「汚れます」
「洗えばいいの」
瑠璃さんは左手で、ハンカチを器用にたたみ直しました。
「さっきの、落ちるなら言ってから、っていうの」
「うん」
「変わった言い方ですね」
「父がね、昔、そう言ってたの。木登りのときに」
瑠璃さんのお父様は、事件のあと家を出ていかれたと聞いていました。私は、それ以上は訊きませんでした。
小暮さんが帽子をかぶって教室へ戻っていくと、楠の下には私たち二人だけが残りました。蝉が鳴き始めていました。
私は、三か月聞けなかったことを、聞きました。
「瑠璃さん。どうして急に優しくしてくれるんですか?」
瑠璃さんは、ハンカチをたたむ手を止めました。
「急に?」
「……急に、ではないですね。最初の日から、ずっとです」
私は膝の上で手を組みました。
「私、帝都に来る前に、天導のお嬢様は私を恨んでいると聞きました。旦那様が亡くなったのは、番人の見回りが足りなかったからで、だから番人の娘を恨んでいる、と」
瑠璃さんの顔から、笑いが消えました。
「それは違う」
「え」
「小野さんは、ちゃんと見てた。毎朝、柱を見てた。見回りが足りなかったなんて、違うよ」
あの夏から、誰もそう言ってくれませんでした。父の手紙のほかには。
私はしばらく、何も言えませんでした。瑠璃さんがどうしてそれを知っているのか、訊くことも忘れていました。
「……ごめん。急に大きい声出して」
「いいえ」
「澪さんが謝ることじゃないからね。それは、ほんとに」
瑠璃さんはハンカチをかくしにしまいました。
私は、言うつもりのなかったことを言いました。
「私、毎晩、瑠璃さんの夢を見るんです」
「え」
「帝都に来た晩から、毎晩です。夢の瑠璃さんは、いつも優しいんです。桟橋の下に一緒に潜ったり、豆を食べたり。昨日の晩は、怒った顔で帳面をくれました。だから、起きているときにも瑠璃さんが優しいと、どっちが夢なのか、分からなくなってしまって」
言ってから、恥ずかしくなりました。会って三か月の人に、夢の話をしています。
瑠璃さんは笑いませんでした。
「……そっか」
長いあいだ、楠の葉を見上げていました。
「私も、夢を見るの」
「瑠璃さんも」
「うん。長い夢。すごく長くて、話すと、たぶん夏休みが終わっちゃう」
瑠璃さんは、そこでやっと少し笑いました。
「だから、それは、また今度ね」
それから、瑠璃さんは私のほうへ身体を向けました。
「ねえ。小さい頃に、貝殻で遊んだっけ?」
心臓が、一つ強く打ちました。
「……覚えてるんですか」
「覚えてるよ。星見荘の岸で。虹色のが一個だけあって、はんぶんこした。澪さんは木に登るのがうまくて、私は登れなくて、下から、ここに足かけて、って教えてくれた」
瑠璃さんは、制服の胸のかくしから、小さな紙の包みを出しました。半紙を何度もたたんだものでした。開くと、虹色の殻が一つ入っていました。
私の缶の中のと、同じ色でした。
「持ってたんですか」
「ずっと持ってたよ」
「ずっと」
「うん。いつか、また会えると思ってたから」
瑠璃さんは、殻を掌にのせて、光に透かしました。内側の虹が、少し動きました。
私は、寄宿舎まで走りました。
「え、澪さん?」
部屋の行李の底から、父のたばこの缶を出しました。中の殻を握って、また楠まで走りました。靴を片方、履き忘れていました。
楠の下で、瑠璃さんはまだ座っていました。私は息を切らしたまま、掌を開きました。
「……私も、持ってました」
瑠璃さんは私の掌を見て、それから自分の掌を見て、二つの殻をベンチの上で合わせてみました。
ぴったりとは、合いませんでした。片方のほうが、ひとまわり大きいのです。九つと十の子が、同じ貝の両側だと思いこんだだけの、別々の殻でした。
「あはは。ぜんぜん別の貝だ」
瑠璃さんは笑いました。笑いながら、目の端を指で押さえていました。
「でも、いいよね。どっちも虹色だし」
「はい」
「ねえ。澪、って呼んでもいい?」
「……はい」
「私のことは」
「瑠璃さん、で」
「えー」
「瑠璃さん、です」
瑠璃さんは、わかった、と言って、殻を半紙に包み直しました。私は殻を握ったまま、靴を履いていないほうの足を、ベンチの下に隠しました。
予鈴が鳴りました。
*
次の日には、天導さまが番人の娘の足を拭いていた、という話が、学年じゅうに広まっていました。
多恵さんが、寄宿舎の廊下で私をつかまえました。
「澪さん。いったい何をしたの」
「木に登りました」
多恵さんは、しばらく口を開けていました。