天導ルリカは生まれるのを止めた
第三章 夢の話ね
第三章 夢の話ね
九月。
*
夏休みは、湖の村の伯母の家で過ごしました。
八月の初めに、瑠璃さんから手紙が来ました。朝顔の柄の便箋でした。
澪へ
暑中お見舞い申し上げます。
帝都は暑いです。湖は涼しいですか。
虹色の貝殻は、机の上に置いています。見るたびに、ぜんぜん別の貝だったのを思い出して、笑います。
九月になったら、長い夢の話をします。変な話だけど、笑わないで聞いてね。
伯母さまにも、よろしくお伝えください。
瑠璃
伯母は、手紙の差出人を見て、長いこと黙っていました。それから、「近寄るんじゃないよ、って言ったのにねえ」と言って、笑いました。
私は返事を書きました。湖は涼しいです。桟橋は新しくなっています。貝殻は、たばこの缶に入れています。笑わないで聞きます。
書き終えてから、同じ朝顔の便箋が欲しくなりました。村の雑貨屋には、そういうものは売っていませんでした。
*
夏休みのあいだに、帳面をくれた瑠璃さんの夢を、何度か見ました。
九月の初めの晩に見たのは、その続きでした。
夢の中の私は、今より少し大人でした。本家の応接の扉の向こうで、天導家の親族の方たちが、声を荒らげていました。警察に届けろ、探偵を雇え、連れ戻せ、と。
いなくなったのは、瑠璃さんと一臣さまでした。
私は、二人がどこにいるかを知っていました。北の港町です。二人はそこで、お菓子を焼くのだそうです。瑠璃さんが、いなくなる前に、下町のお店の奥で教えてくれたのです。探しに来ないで、探そうとする人がいても放っておいて、と言っていました。
夢の中の私は、親族の方たちの長い卓の前に立って言いました。
「親が犯罪者であると知った二人はいなくなりました」
部屋が静かになりました。私はそれ以上、何も言いませんでした。行き先を訊かれても、答えませんでした。言わないことが、瑠璃さんへの返事でした。
目が覚めると、胸のところが苦しくなっていました。夢の私は、ちゃんと約束を守っていました。守っているのに、あの瑠璃さんには、もう会えないようでした。
*
九月の二週目の土曜の午後、楠の下で、瑠璃さんは長い夢の話をしてくれました。
「あのね。先に言っておくけど、変な話だよ」
「はい」
「夢の話だからね」
瑠璃さんは念を押すように、もう一度言いました。
「私の夢の中ではね、ここは、お話の中なの。本みたいな……ううん、もっと、読む人が自分で道を選べるお話。その中で、澪が主人公なの」
「私が」
「そう。番人の娘の澪が、学院に来て、男の人たちと出会って、恋をして、お父さんが本当は何を見ていたのかを見つけるお話。最後に、私の十八の誕生日の夜に、澪がみんなの前で本当のことを言うの」
瑠璃さんは膝の上で指を組みました。
「そのとき、澪は私を断罪するの」
だんざい。
「……罪を、みんなの前で言うことですか」
「そうそう。よく知ってるね」
「夢で聞きました。怒った瑠璃さんが、断罪される覚悟はできています、って」
瑠璃さんは目を丸くして、それから、少し困った顔で笑いました。
「その私、かっこいいね」
夢の中の瑠璃さんは、学院で澪を虐めるのだそうです。澪の靴を池に投げて、下級生の小暮さんを階段で押す。十七の冬には、お母様の帳面を暖炉で燃やす。十八の夜、澪にその罪を一つずつ言われて、婚約を解かれて、海の向こうの修道院へ送られることになる。
「小暮さんを押すんですか。あの小暮さんを」
「うん。ひどいでしょ」
「ひどいです」
「だから押さないの。靴も投げないよ」
「知っています」
瑠璃さんは、ふふ、と笑って、楠の枝のほうを見ました。
「最後にね、家の門の外で、作業着の男の人が待ってるの。荷物一つの私に、送っていこうか、って言うの。私が、あなた誰、って言うと、昔あなたを抱いていた者だ、って」
「……お父様ですか」
「うん。お話の中では、名前は言わないけど」
瑠璃さんの声が、少し小さくなりました。
「そこで、いつも泣いたの。何回見ても泣いた」
「夢を、何回も見たんですか」
「うん。何回も」
瑠璃さんは、しばらく黙っていました。
「それでね。夢の中で、ずっと思ってたの。澪と瑠璃が仲良くなればよかったのにって」
私は、瑠璃さんの横顔を見ました。
「二人とも、湖の子なのに。あの夜のせいで、二人とも、お父さんがいなくなったのに。ほんとは、貝殻を分けた子どうしなのに」
瑠璃さんは、私の顔を見ないで言いました。
「だから、私、澪が来るの、待ってた。ずっと。六年」
六年、と私は口の中で言いました。
帝都に来る前に、私は伯母に、近寄るんじゃないよ、と言われていました。私が恨まれていると思っていたあいだ、この人は、私が来るのを待っていたのでした。
何か言わなければ、と思いました。言葉が出ないので、ベンチの上の、瑠璃さんの手の横に、自分の手を置きました。触ってはいません。指一本ぶん、離れていました。
瑠璃さんはその指一本ぶんを見て、少し笑いました。
「はい、暗い話おしまい!」
瑠璃さんは手を叩きました。
「ここからは楽しい話。お話の中の恋の相手はね、三人いるの。一臣さま、慎さん、遼さん。一人だけ選べるの」
「一臣さまは、瑠璃さんの婚約者の」
「そう。無口で、本を貸してくれる人。慎さんはお医者さんの息子で、詩を読むの。遼さんは新聞記者で、声が大きいの。みんないい人だよ。……それで、澪は誰が好き?」
瑠璃さんは身を乗り出しました。夢の話をしていたときより、目がきらきらしていました。
三人のうち二人に、私はまだ会ったこともありません。
「私は、一人選ぶなら、瑠璃さんがいいです」
瑠璃さんは、ぱちぱちと二回まばたきしました。
「そっかー、じゃあ、二人で駆け落ちしよっか!」
あんまり早く返ってきたので、今度は私がまばたきをしました。
駆け落ち、と聞いて、九月の初めの夢を思い出しました。北の港町のお菓子屋と、本家の応接です。
「……そうですね。駆け落ちした瑠璃さんと一臣さまを探さないように説得する役になるくらいなら、一緒に駆け落ちしたほうがいいです」
「待って。なにそれ」
「夢です。瑠璃さんと一臣さまが駆け落ちして、北の港町でお菓子屋さんを開いて、私は、探さないように親族の方たちを止める役でした」
「えー、その私、一臣さまとお菓子屋さんやってるの? すごい。それ、お話にない」
瑠璃さんは本気で感心しているようでした。
「夢の中の、さらに夢だね、それ」
それから、ぽんと手を打ちました。
「じゃあ、二人でお菓子屋さんだねー」
「お菓子作れるんですか?」
「ぜんぜん作れない。前世でも好きな子にチョコを渡そうとしたんだけど、グチャグチャになっちゃって」
瑠璃さんは笑って、それから、ぴたりと止まりました。
「あ、夢の話ね」
「……はい」
私は、はい、と言いました。
*
前世、と瑠璃さんは言いました。言ってから、夢の話ね、と足しました。
その晩、寄宿舎の布団の中で、私はそのことを考えました。
瑠璃さんの長い夢の中では、私はお話の主人公です。誰かが道を選んで、私に恋をさせて、私に瑠璃さんを断罪させる。もしそれを、本当のことだと言われていたら、私はどうしていいか分からなくなったと思います。自分の気持ちまで、誰かに選ばれたもののような気がして。
だから瑠璃さんは、自分の話のほうを夢にしてくれたのだと思いました。私が、お話の中の人にならないように。
私の夢の話を、瑠璃さんは一度も笑いませんでした。それなら私も、瑠璃さんの夢の話を、夢の話として聞こうと決めました。前世、のところは、聞かなかったことにします。チョコがグチャグチャになったところだけは、覚えておきます。
好きな子、というのが誰だったのかは、訊けませんでした。
訊けなかったことが、なぜか一晩じゅう気になりました。