星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第四章 お菓子屋さんの一品目

第四章 お菓子屋さんの一品目

十月から、二月まで。

 *

十月の夢は、海の匂いがしました。

南の港町の造船所でした。船台の上に、板を半分しか張っていない大きな船が乗っていて、槌の音が一日じゅう鳴っていました。夢の中の私は、造船所の門のそばに立って見ているだけで、誰にも気づかれませんでした。

お昼に、瑠璃さんが門をくぐってきました。赤い地に白い手毬の柄の、子どものような着物を着ていました。いまの瑠璃さんより、少し大人に見えました。お弁当の包みを一つ、両手で持っていました。

船の横の足場から、大柄な男の人が下りてきました。日に焼けて、作業着を着て、無精ひげがありました。右の足を、少し庇うようにして下りました。

男の人は包みを受け取って、蓋を開けて、中を見ました。卵焼きが、少し焦げていました。

「お前が作ったんか」

「はい」

「えらいな」

男の人は、太い指で、瑠璃さんの頭を二回撫でました。周りの若い人たちが「恭さん、ええなあ」と言って、男の人は「ええだろう」と言いました。

夢の中の瑠璃さんは、撫でられた頭に手をやって、とても嬉しそうでした。嬉しそうなのに、少しだけ、悔しそうな顔もしていました。

目が覚めてから、あの男の人は、瑠璃さんの長い夢に出てくる門の外の人だと思いました。あの夢の瑠璃さんは、門の外まで、自分から会いに行ったのです。

 *

十月に、私たちは、これからどうするかを考え始めました。

言い出したのは瑠璃さんです。放課後の図書室の、いちばん奥の机でした。

「澪のお父さんの名前は、返してもらわないと」

瑠璃さんは手帳を一冊広げて、左手で書きました。

 一 お母さまの帳面(私が探す)
 二 蘆田医院の処方簿(慎さん)
 三 伯父さまの手紙の下書き(一臣さま)
 四 お絹と、父の話(遼さん)

「お話の中では、澪が二行目から下を一つずつ集めるの。三人と仲良くなって、三人が一つずつ見つけてくれる。一行目は、お話の私が燃やしちゃうから、ない」

「瑠璃さん」

「うん」

「これを全部集めたら、瑠璃さんのお母様は」

瑠璃さんは、ペンを止めませんでした。

「うん。つかまる。伯父さまも」

「それでいいんですか」

「よくはないよ」

瑠璃さんは、四行の下に線を一本引きました。

「でも、決めたの。十歳のとき。……長い夢から覚めたとき、もう全部終わったあとだったの。おじさまはいなくて、父は出ていくところで、小野さんは、もうすぐ暇を出されるところだった。私、何もできなかった。だから、せめて、これだけはちゃんとするって」

私は、手帳の四行を見ていました。

「一つ、条件があります」

「なに」

「私は、瑠璃さんを断罪しません」

瑠璃さんは笑いました。

「それは、お話の決まりだから」

「決まりでも、しません」

「澪って、頑固だよね」

「はい」

瑠璃さんはそれ以上言いませんでした。四行の横に、小さく、澪は頑固、と書き足しました。

 *

慎さんには、十一月に会いました。瑠璃さんが、詩の会に連れていってくれたのです。

蘆田慎さんは、医学校の学生でした。眼鏡をかけていて、声がやわらかく、白衣のかくしに詩集をさしていました。詩を読むときは、行の終わりで必ず一拍おきます。私が思わず「続きは」と言うと、

「急ぐと、詩がかわいそうですから」

と言いました。

帰り道、瑠璃さんは私の袖を引っぱりました。

「ね、ね。慎さん、いい人でしょ」

「はい。いい方です」

「それだけ?」

「それだけです」

瑠璃さんは、なぜかがっかりしていました。

早瀬遼さんには、十二月に会いました。帝都日報の記者で、癖のある髪に帽子をのせて、いつも手帳を持っています。日に焼けていて、声が大きく、珈琲店の二階で話しているあいだに、店の人に二回、お静かに、と言われました。

「澪ちゃんの親父さんの件なら、おれも前から気になってたんだ。あの桟橋、事故にしちゃ話がきれいすぎる」

遼さんは、お絹さんという昔の女中さんを探してみると言いました。それから、南浦の造船所にいるという、瑠璃さんのお父様のことも。

帰り道、瑠璃さんはまた私の袖を引っぱりました。

「遼さんは? ああいう人、どう?」

「声が大きいと思います」

瑠璃さんは、またがっかりしていました。

 *

一臣さまと二人で話したのは、一月の終わりの一度だけです。

その日、瑠璃さんは講読会の片づけで遅くなっていました。門の外で、一臣さまが本を片手に待っていました。私は寄宿舎へ戻る途中で、門の前を通りかかりました。

「小野」

呼び止められたのは、初めてでした。

「はい」

「瑠璃は、君の話ばかりする」

「……すみません」

「謝ることではない」

一臣さまは、本の背を指で一度なぞりました。

「あれは十の年から、誰にも本当のことを言わない子だった。笑っているが、言わない。……君には、言っているようだ」

「一臣さまには」

「私には、本の感想だけだ」

一臣さまは、それを悪いことのようには言いませんでした。本当のことを言うように、ただ言いました。

そこへ、瑠璃さんが校舎から走ってきました。門の前に私と一臣さまが並んでいるのを見て、ぱっと顔を明るくしました。

「え、え、二人で何話してたの」

「本の話です」

と私は言いました。

「そうだ」

と一臣さまが言いました。

瑠璃さんは、私と一臣さまの顔を代わるがわる見て、それから、なぜか嬉しそうに頷いていました。

 *

お菓子を作ったのは、二月の日曜日でした。

寄宿舎の台所は、日曜の午後なら、寮監の先生に言えば使わせてもらえます。瑠璃さんは、本家の料理番に聞いたという作り方を書いた紙と、卵と、砂糖と、バターを、風呂敷に包んで持ってきました。

「今日はね、ビスケット。お菓子屋さんの一品目」

「作ったことはあるんですか」

「ない」

瑠璃さんは、きっぱり言いました。

卵を割るところから、もう大変でした。瑠璃さんは卵を鉢の縁にぶつけて、ぶつけすぎて、殻ごと鉢に落としました。次のは、力が足りなくて割れませんでした。その次のは、割れたと思ったら、手の中でつぶれました。

「……卵って、こんなに難しかったっけ」

「貸してください」

私は片手で卵を割りました。湖の村では、朝ご飯の支度は私の仕事でした。

「すごい。職人だ」

「卵です」

バターは固くて、瑠璃さんがへらで練っているうちに、へらのほうが曲がりました。砂糖を量らずに入れようとしたので、止めました。天板に並べた生地は、大きいのと小さいのがあって、焼き上がると、大きいのは真ん中が生で、小さいのは焦げていました。

一つずつ食べて、二人で黙りました。

「……グチャグチャではない」

瑠璃さんが言いました。

「はい。グチャグチャではないです」

「前世よりは、進歩してる」

「夢の話ですね」

「そう、夢の話」

瑠璃さんは焦げたビスケットをかじって、苦い、と言って笑いました。

それから、私の作れるものを作りました。父が冬によく作ってくれた、芋ようかんです。さつま芋を蒸して、裏ごしして、砂糖と塩をひとつまみ入れて、型に詰めて冷やすだけです。裏ごしは、瑠璃さんが上手でした。ゆっくりですが、丁寧でした。

型から出した芋ようかんを、瑠璃さんは長いこと眺めていました。

「澪のお父さんの味だ」

「父のは、もっと甘かったです」

「じゃあ、お店のは、もっと甘くしよう」

瑠璃さんは手帳を出して、四行の頁のうしろに、一枚あけて書きました。

 お菓子屋さん
  一品目 芋ようかん(澪のお父さんの。もっと甘く)
  二品目 ビスケット(練習中)

「一品目、取られちゃった」

瑠璃さんは、嬉しそうに言いました。

 *

図書室で同じ本を読んだのは、その次の週です。

一臣さまが瑠璃さんに貸したという、翻訳の少女小説でした。寄宿学校のお金持ちの女の子が、父親を亡くして、屋根裏の女中にされて、それでも心の中では王女さまのようにふるまう、というお話です。

「一臣さま、なんでこれを私に貸したんだろう」

「さあ」

一冊しかないので、並んで座って、真ん中に本を置きました。瑠璃さんが頁をめくります。左手で端をつまんで、そっとめくります。

しばらく進んだところで、瑠璃さんがめくる手を止めました。

「……ねえ。今の頁、何が書いてあった?」

私は頁を見ました。字は並んでいました。何が書いてあったのかは、一行も覚えていませんでした。瑠璃さんの指ばかり見ていたのです。

「……分かりません」

「私も」

瑠璃さんは本に額をつけて、笑いをこらえていました。図書室の係の先生が、こちらを見ました。

帰り支度をしながら、瑠璃さんが言いました。

「澪。一臣さまのこと、どう思う?」

「……無口な方だと思います」

「かっこいいでしょ」

「瑠璃さんの婚約者です」

「婚約は、伯父さまが決めたの。お話の中でもそう」

瑠璃さんは本を風呂敷に包みながら、私を見ないで言いました。

「お話の、一臣さまのところの最後はね、すごくいいの。澪の卒業式の朝に、学院の並木道で、一臣さまが手袋を片っぽ外して、手を出すの。澪、って、初めて名前で呼んで。澪がその手を取ると、手袋越しでは、嫌だった、って言うの」

「……」

「だからね、澪がいいなら、私、ぜんぜん」

「瑠璃さんは、どう思ってるんですか」

私の声は、自分で思ったより固く出ました。

瑠璃さんは、風呂敷の結び目を二回結び直しました。

「いい人だよ。ほんとに。でも、あの人には、あの人のお話があると思う。……澪の夢の中の私は、一臣さまとお菓子屋さんやってるんでしょ。そういうのも、あると思う」

「私、その並木道の絵、見なくていいです」

瑠璃さんが顔を上げました。

「え」

「見なくていいです」

私は先に図書室を出ました。廊下の窓に、自分の顔が映っていました。日に焼けた、怒っているような顔でした。

何に怒っているのか、自分でもうまく言えませんでした。瑠璃さんが、私のことを、誰かと結ぶ相手としてばかり話すからかもしれません。瑠璃さんの話の中に、瑠璃さん自身の居場所が、いつもないからかもしれません。

 *

次の朝、並木道で、瑠璃さんは「おはよう」と言いませんでした。

代わりに、私の前まで来て、頭を下げました。

「昨日、ごめん」

「……私も、すみませんでした。先に出てしまって」

「ううん。私が悪かった」

瑠璃さんは顔を上げて、自分の靴の先を見ました。

「澪を、誰かとくっつけようとするの、やめる。……たぶん」

「たぶん、ですか」

「お話の癖が、なかなか抜けないの。何回も見たから」

私は、少し笑ってしまいました。

「では、癖が出たら、言います」

「うん。言って」

瑠璃さんは、それから、やっと「おはよう」と言いました。今度は、言い直しませんでした。周りに人がいたのに。